【再掲載1100】安倍晋三の愛読書が遠藤周作?(改題)

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【再掲載1100】 【安倍晋三の愛読書が遠藤周作?(改題)】


ええっ?
そういうことってあるの?
という感じだったのが、
安倍晋三の愛読書が遠藤周作である、とか。
遠藤周作といえば、
重くて暗い題材が多いカトリック作家だった。
麻生さんもカトリック政治家らしいけど、
それは、とってつけたような装飾品だ、
というのはすぐにでも了解できるけど、
安倍晋三と遠藤周作というのは、
おぼっちゃま君にしては結びつかない。
これも、何かの装飾品なのか、と。
遠藤周作のように
重くて暗いテーマを題材にしていると、
人生の1/3は病魔に蝕まれて病院通いとなる。
似たようなのにサイケデリック作家の横尾忠則が
いたけど、NHKで放映された姿には、病魔から解放された
ものがあった。自称・病気の百貨店だった横尾忠則だが。
ところで、
遠藤周作について調べると、
こちらの網にひっかかったのが下記の二記事。
——————————-
https://plaza.rakuten.co.jp/juksmile/diary/201203070004/
【遠藤周作の原点=『神と悪魔』】
カトリックから金を出してもらって
フランス留学するも、
そこでの問題意識とは、
サド研究と黒ミサ探索、
・・・
であった。
そして、留学先で、体調を崩し入院することに。
最初、初期の『神と悪魔』は、
小説かと予想していたところ、
手にすると、これは、渡仏日記みたいなもので、
彼の関心がどうやら黒ミサ、黒魔術にあったと
伺わせる記述があります。
まぁ、なにごとにしても、
どのように向き合うのか、
あるいは、
どのように向き合えるのかにより、
結果が異なってきますが、
一歩間違えると、深刻なダメージが心身ともに、
刻印されていきます。
さて、どうも、
人生の三分の一を
病院・病気で経過した原点が、
フランス留学にあったと
推定できそうです。
後年、その決算が、
『スキャンダル』として結実するところ、
ネガティブに魅かれるのはよくあるとしても、
その魅かれ方の筋の良否があるでしょう。
ぐーたら評論が実は本業、
小説は実は副業であった、と。
こちらからみると、
悪魔的なるものに対する向き合いに、
何か問題があったと仮説しておきましょう。
————————————
https://plaza.rakuten.co.jp/juksmile/diary/201204180020/
【モノ真似から、独自性を出すには】
まず、批判の洗礼を通過する儀式を
経ていない場合、
お話にならない。
論文というものの1/3は、
想定された批判派をいかに説得するか、
そういう姿勢を見せることが肝要になります。
法律解釈にしても、
賛成擁護派、
反対批判派、
両者の折衷派、
と、三派にわかれます。
前田刑法学が、大塚刑法学の読み替えを
徹底して意識したように、
先行する権威をいかに組み替えるか、
その努力は必要になります。
もっとも、いかなる専門に自分を差し出すか、
それを決定する決断がいりますが、
それは、他に決めてもらうのではなく、
本人選択になります。
ところで、
青年期においては、
独自性を打ち出すことはむつかしいので、
先行学説、先行思想と向き合うことを
要求されます。
その向き合い方がどうかにより、
独自性が出せるのか、
それとも、
単なるモノ真似のエピゴーネンに堕すするかは、
やはり、その人の資質的なところがあります。
しかし、独自性を打ち出すヒントは、
異質な人との対話からひねりだされることが多い。
簡単に既成の権威に屈服する人は、
モノ真似に終わることが多いです、ね。
つまり、反抗する姿勢、抵抗する姿勢がない人は、
独自性を打ち出すチャンスさえ出てこない。
しかし、二つの異質な思想を比較検討することから、
独自性のヒントが出てくる可能性が強いですから、
遠藤周作氏が女優志願者に、
二年間、
二つの小説を熟読玩味することを推奨しているのは、
異なる二つのものを、
どう整理統合できるか、
そういう訓練を示唆しているようです。
世の中に出るとおわかりのように、
自分の反対派がいつも存在しているワケです。
そういう異質な人が、
やはり、自分を磨く作用をするのです、ね。
反対派との関係において、
もまれた経験がない場合、
相手を超えていくチャンスは出にくい。
結局、何を言いたいのかというと、
単一価値しかもてない人は、
挫折しやすい、ということ。
また、当然のことながら、
独自性を打ち出すのもむつかしい、ということ。
つまり、思想のセンスというのは、
ああでした、こうでした、と
祖述しても仕方ない、ということ。
よって、祖述から入る内田樹というのは、
独創性を打ち出すことはまずないです、ね。
内田樹にたいして、このやろうが、
という気概がもてない人は、
まず、モノ真似に終始します。
もっとも、内田樹を相手にしているようでは、
どうにもなりませんけど。。。。
つまり、相手にする存在が、内田樹程度では、
どうにもならない、ということ。
よって、それ以下を相手にしているようでは
さらに、どうにもならない、ということ。
逆にいうと、つつがなく人生を終えたい人は、
つつつがない小物を相手にされること。
小さな満足、大きな幸せに、生きがいを感じられるのも、
処世の方便術になります。
二番煎じ、三番煎じは、楽ですが、
所詮、物まね芸で終わります。
物まね芸で終わるとどうなるかですが、
歴史のゴミ箱行きということです。
ごみ、かす、泡で生涯を閉じる人は、
つつがなく、人生をすごされるのも手ですが。

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