猪木正道の政治思想3部作 小泉信三の批判的マルクス研究

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【猪木正道の政治思想3部作 小泉信三の批判的マルクス研究】


学閥、子弟関係があり、
慶應はとくに一橋との関係が深い。
一橋から招聘する関係にある。
学閥師弟関係というのは
会社の派閥親分子分関係と
相似関係とみてよい。
下は貢いで取り入らないと
上からの引き立てはないと
割り切るのがかんたんである。
さて、
猪木正道、小泉信三について
これまで拝見したことはないのだが、
今回改めてチェックを入れておいた。
二人ともマルクス批判派の代表格。
もっとも、社会思想関係の人は
マルクスについてはどうしても
検討せざるをえないところがあり、
猪木については一部取り込んでいる要素は
濃厚といえる。まるで全否定というのはない。
対決姿勢は小泉信三のほうが強い。
以下、wiki記事参照。
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【猪木正道】
東京大学在学中は河合栄治郎の演習に参加し、自由主義と社会主義双方に立脚した考えをもとにした[3]人格主義的理想主義から共産主義と軍部の政治関与のいずれをも批判する態度に共鳴し、戦後日本の平和主義に潜む危険性に警鐘を鳴らしていた[2]。 特に、旧ソ連で非人間的な独裁制に至ったマルクス主義の理論的欠陥を訴えるなど、社会主義への理解のある政治思想家の中では反共色の強い存在でもあった[3]。 ただし、中川八洋は「猪木は隠れソビエトシンパだった」と批判している。 1982年の中川の批判に対して名誉毀損で提訴を起こしたが、猪木側から和解を申し入れ決着した[4]。 また福田恆存は、『正論』の黒幕S氏から睨まれて『正論』から原稿依頼がなくなったと書いていたが、弟子の松原正は、S氏は猪木だと書き[5]、空想的平和主義者として猪木を批判している[6]。
指導した学生に高坂正堯・木村汎・矢野暢・西原正・大島渚・五百旗頭眞がいる。
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【河合栄次郎】
1920年に東京帝大助教授となり[3]経済学史を担当する。1922年よりイギリスに留学し、イギリス理想主義、とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受ける。1925年8月に帰国し[4]、翌1926年に教授となり[5]、社会政策講座を受け持った。河合の学問の対象はアダム・スミス、ベンサム、J・S・ミル、グリーン、を経てフェビアン協会、イギリス労働党に至るイギリスの社会思想史であり、それに基づいて社会政策学を構築した。その成果は『社会思想史研究』(1923年)、『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(1930年)、マルクス経済学も取り入れた[6]『社会政策原理』(1931年)であった。
また、河合門下三羽烏と呼ばれる大河内一男・安井琢磨・木村健康らを育てた[7]。河合は、以前より存在した東大経済学部の勢力争いの中、多数派の領袖格として行動し、少数派のマルクス主義派と対峙していた。1936年3月31日から1年間、経済学部長。妻、国子は初代経済学部長であった金井延の娘である。
河合栄治郎事件
詳細は「河合栄治郎事件」を参照
その後、ファシズムが勢力を伸ばしてくると、河合はファシズム批判の論陣を張った。それがために、右派陣営からの攻勢は強まり、かつて河合についていた教授も国家主義派(革新派)土方成美の派閥に鞍替えするなど、学部では勢力を失いつつあった。1938年に『ファッシズム批判』など4点の著作が内務省により発売禁止処分[8]に付され、翌年これらの著作などにおける言論が「安寧秩序を紊乱するもの」として、出版法違反に問われ起訴された。また学内においても、河合の対立勢力であった土方らとの対立が激しくなり、1939年総長平賀譲の裁定により、1月31日、河合は休職を発令されるに至った(平賀粛学)。この過程で、「粛学抗議の辞表を撤回するべからず」との師の言に逆らって経済学部に残留した大河内・安井は事実上の破門となった。退官後は裁判闘争に明け暮れることとなったが、1943年に大審院の上告棄却により、有罪が確定した。以上が河合栄治郎事件と呼ばれる。
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【小泉信三】
慶應義塾大学部政治科では福田徳三の指導を受け、庭球部のキャプテンも務める。学生時代には8歳年上の義弟(妹・勝の夫)である横山長次郎の縁で夏休みにたびたび岩手県釜石に遊びに行った[2]。1910年(明治43年)に卒業し、慶應義塾の教員となる。1912年(大正元年)9月[3] に研究のためヨーロッパへ留学し、イギリス、フランス、ドイツの各大学で学ぶ。同じく留学中だった大学部文学科美術史科教員で、西洋美術史を初めて日本に紹介した澤木四方吉と親交を深める。イギリスへの留学中、小泉は1913年(大正2年)のウィンブルドン選手権を観戦したことがあり、当時大会4連覇中だったアンソニー・ワイルディングの著書『On the Court and Off』(「テニスコートの内外で」)を日本に送り、大学の後輩たちに硬式テニスを推薦した。
1916年(大正5年)に帰国し、大学部政治科と理財科の教員となり、デヴィッド・リカードの経済学を講義する。自由主義を論調とし、共産主義・マルクス経済学に対し徹頭徹尾合理的な批判を加えている。1924年(大正13年)慶應義塾図書館監督(館長)に就任[4]。1925年(大正14年)にはそれまで住んでいた麻布の借家から品川御殿山の新築[注 1]に移った。
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【福田徳三】
1905年から1918年まで慶應義塾教授。慶應義塾では小泉信三(経済理論、文化勲章、元慶應義塾塾長)、高橋誠一郎(経済学史、文化勲章受章者)らを育てた。

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