【コイル神学の構築へ?】

【コイル神学の構築へ?】


神学を構築していくというのは、
魅力あるテーマです。
コイル神の一つは対数螺旋神ですが、
この対数螺旋神には、左と右の二つあります。
さしずめ、対応的には、
タカミムスビ神とカミムスビ神の二つに
対応するでしょう。
まるで、古事記の神話のように。
平田篤胤、折口信夫は、
たしかに、
タカミムスビ、カミムスビの結びの神を
重視しています。
というのは、天宗系以外は、
アメノミナカヌシを祖神としてはならぬ、と
宣命が出ているからなのです、ね。
まぁ、下々は、
恐れ多くも、
決して、アメノミナカヌシを祖神とはしない。
それは、天宗系に譲渡しておくワケです。
祖神とはしないが、
太陽=アマテラス=神、
としているのは、
どうやら、宣長あたりですが、
宣長の場合は、
あまりにも、漢意からごころに対する
敵対意識が強いので、
大和心の純潔主義を守るのは、
現実にそぐわないです。
いろんなものを取り込みながら、
階層化していけばよろしいと、
こちらは解しています。
要するに、敵さんはランクが下と、
位置づけるのが、古来からの方法です、ね。
そこには、徹底的に、差別意識が作用します。
まぁ、目糞と鼻糞との戦いですから、
互いに、ランクが下といっているだけです。
それにしても、
宣長は、人が死んだらどうなると問われて、
黄泉の国に行くとだけ応えます。
それ以上のことは詮索しても仕方ないのだ、と。
つまり、それ以上は無用である、と。
しかし、篤胤あたりになると、
黄泉の国に行くというだけでは、
魂の安定が得られないとして、
模索しているところ、
下に行くだけでなく、上に行くのもいるだろう、
という程度の回答をしているのだと
こちらは見ています。
理論書というのは、くだくだと、例証と引用が多く、
どこに結論があるのか不明なものが多い。
とくに、『霊能真柱』などは、古事記、古事記伝の
引用のオンパレードで、どこに、篤胤の独創があるのか、
ほとんど、見つかりません。
ただ、死んだらどうなる、という問題意識があったことだけは
間違いないようで、・・・・。
死んだら、死に切るんだ、という方もおられます。
そういう発想は、死が存在する、と考えています、ね。
死とは、なにもない、とは考えないのです。
死というものがある、というのは、
死という存在がある、と考えるのです、ね。
最近は、生きている存在と、死んだ存在、
そういう二つの存在を考える人たちが登場しています。
なかには、死んだ存在を代理すると自称、詐称する方も
登場しています。
『デスノート』などは、死神様に、
生きている存在が支配される物語です。
最近は、こういう類のものが多いです、ね。
神にも、生神様と、死神様との二つあることくらいは、
だんだんと、了解されるようになってきているのかもしれない。
神様にも、善い神様と悪い神様がいる、
というのは、宣長の神様認識です、ね。
悪いことがおきても、これは、悪い神様の
みしわざ、であると断定しています。

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