【折口信夫の国文学の発生論】
モノゴトの発生の起源まで遡る、
あるいは、発生の起源を想像する、
そういう具合に、モノゴトの発生基盤というものは、
ある一点に物事を集約してみる作業であろう。
実証的な人は、歴史資料がないとして、
モノゴトの発生起源は不明であるとして、
推論、想像を放棄する。
しかし、一点を想像しないと満足しない癖のある方は、
発生起源神話を構築していくのである。
これは、思考回路の癖であろう。
さて、国文学の発生とは何として考えられるのか。
不文の状態から文を発生させる力は、
信仰と関わっているのではないかと、
折口信夫は仮説する。
そして、その信仰に関わる部分を
神授の呪言ではないかと仮説する。
その呪言とは、祈りであり、願いであり、
賞賛であり、帰服である。
そして、歌とは、鎮魂であり、祈りであり、
感謝であり、賞賛であり、それが祝詞として
形式整備されていき、神道の基盤を構築した、と。
だから、神道を理解するには、
鎮魂とは何か、そして、祝詞とは何か、歌とは何か、
と遡らないと理会できないだろうと、折口は断言する。
そうした問題意識は、
奇妙にも、漢字世界を探索した白川静と
共通するところである。
つまり、祝と呪の記号体系を漢字世界の中に探索する、と。
だから、折口の卒業論文は『言語情調論』だった。
言語記号を音の体系としてみるのである。
つまり、音の体系としてみるということは、
歌、歌謡として、まず、言語発生を押さえることを意味する。
そして、文字として残った歌は何であったかというと、
それは、神授の呪言であった、と。
単なる日常言語の信仰と関わらない部分は、
文として残らなかったのではないか、と仮説する。
それで、折口の『国文学の発生』論は、
祝詞理会の背景説明にもなっており、
極めて興味深い論考である。
この『国文学の発生』は、
青空文庫よりダウンロードできる。
古代研究の三巻の主要内容を構築するものである。
彼の国文学とは、国学でもあり、
それは、神道神学でもある。
万葉、記、紀、延喜式祝詞、
最小この四つが神道神学の基礎文献である。
その中でも、
とくに、延喜式祝詞は、
民間にも広く流布されたものとして、
大祓詞は有名であるところ、
まだ、その祝詞の言語構造について、
深い研究されたというのは、まだ、ない。
つまり、旧い言語にいかなる意味が
乗せられているのか、そうしたことは、
現代人には、合理化を介さないことには理解できないので。
祝詞言語にこめられた太古の記憶残滓を
再生するのは、鋭い深い言語感応力の持ち主により
かろうじて可能となる。
文化資本のリソースとして,
この折口の『国文学の発生』を、
組み込んでおきたいものの一つである。
あの吉本隆明の「古典」として、
日本の文献を入れていたのは二つであった。
つまり、柳田国男の『海上の道』と、
「国文学の発生」が収録されている折口の『古代研究』三巻の
二著であった。
なかには、折口信夫をファシストとして
断罪しようとする左巻の人がいるところ、
それは、太古からの日本の歴史を否定する論者にすぎない。
そいう方は、教養のリソース不足、素養の不足を
自己暴露しているにすぎないだろう。
コメント