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【キラーコイルの秘密】
【西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か (講談社選書メチエ 717) 単行本 – 2019/12/12
中村 昇 (著)】
主客未分離の「純粋経験」の自覚過程論。
自分の種子が「絶対矛盾的自己同一」場で
いかに自覚されていくのかの宗教場における
自覚の論理の展開。
それゆえ、他説解説などの野暮なことはしない。
ひたすら、禅で得た体験を概念定式化していった
という特殊個人の哲学表現とも読める。
だから、他者による理解ができない。
それは西田のあまりにも特殊な体験なので。
多分、西田がヘーゲル圏内から離脱できなかった
由縁が純粋経験とか絶対矛盾的自己同一により
表わされており、多分に、鈴木大拙あたりへの
対抗意識が過剰だったのかもしれない。
わかりやすくいえば
太極図以前の未分化状態から
物事が生成することを
個人的体験に引き寄せて
それを自覚の論理として
定式化したということ。
とどのつまり、自己意識の変遷過程の
哲学定式化にすぎない、といえばそれまで。
普通の市井人からすると
この人は一体何にこだわっているか
になる。
自己満足の自覚論。
だから、それに魅かれる人は
特殊な哲学マニアしかいない。
こちら的関心があるとすれば、
そういう自覚論からコイルネタが
一つでも抽出できるか、という
問題に転換される。
ほとんど労多くして益少なし、
とみている。
上記タイトル本の著者にしても、
何を格闘されているのか、
よくわからない。
もっとも、彼には遍歴書があるのだが、
ご同類ではないので、読まない。
読まずして、動機推理するだけ。
ちなみに、彼のシュタイナーとの
格闘本を拝見するも、格闘して何なの
という疑問がかなり残った。
彼のような読み方だとオカルト哲学は
全く切断され、文言だけを拾って
自分注釈をつけて自己満足しているだけの
暇本にしかみえない。
wikiによる西田幾多郎の概要
郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。
最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教学での用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。
西田は思想輸入的・文献学的なアプローチを取らず、先人らの思考法だけを学び独自に思想を展開させたがゆえに、彼の著作は一見すると独創的で難解である。しかし、禅の実践から抽出された独自の学風は文献学者、「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼでもありえよう[独自研究?]。一方、田辺元や高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。
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タイトル本の概要
『善の研究』から「場所の哲学」へ――。西田の哲学遍歴は「場所の哲学」にいたって、ついに独創的な境地にいたったとされる。
『善の研究』の冒頭に出てくる「純粋経験」からはじまって、後期の「絶対無の場所」にいたる思考とは、どのようなものなのか。
近年とみに影響関係が指摘されるベルクソンとの関係、あるいは仏教の時間論と西田の時間論の共通点と相違。フッサールやレヴィナス、あるいは鈴木大拙、井筒俊彦にいたるまで、あるいは量子論との相関など、様々な角度から丁寧に参照しつつ、著者はするどい考察を繰り広げて、独自のスタイルで西田の本質に迫っていく。
それは西田自身の言葉をかりれば、さながら「悪戦苦闘のドッキュメント」の様相を呈しつつも、きわめて鮮明に、西田哲学の真のすがたが浮かび上がってくる。
「存在と無」(=あるとない)という、われわれがごく日常的に想定する対立の以前に、「場所」というものを考え、そこに人間の根本をみようとした近代日本哲学の巨峰を、これまでにない明解な叙述で味わい尽くす力作!
著者について
中村 昇(なかむら・のぼる)
1958年生まれ。1994年、中央大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。現在、中央大学教授。専攻は、哲学。
主な著書に、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)、『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(春風社)、『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)、『落語―哲学』(亜紀書房)など多数。
最近の論文に、「贈与、そして「相関主義の強いモデル」(メイヤスー)としてのウィトゲンシュタイン」(「中央大学文学部紀要 哲学 第61号」)、「土方巽試論」(「中央大学人文研紀要 第92号」)など。
amazonレビュー
caritas77
5つ星のうち5.0 筆者の思考過程
2020年9月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者は哲学者です。西田、鈴木大拙、趙州、ベルクソン、フッサール、レヴィナス、山口瑞鳳、デカルト、清沢満之といった人々あるいは人に関する作品を読んだうえで、西田の表現の中に見出すことのできる西田自身の立ち位置とコトバの持つ機能とについて、筆者自身が焦点であると考える内容を表示している点に多くを学ぶことができます。筆者には『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』という著書もあり、読後、同様のことを思いました。p.15に本書の執筆動機について、西田幾多郎という「真の哲学者」について書いてみたいと思った、と記されています。私ならば、絶対にこうは書きませんが、筆者の態度はある程度理解できると思います。
この本のように、「自分が見立てた範囲では、西田、鈴木大拙、趙州、ベルクソン、フッサール、レヴィナス、山口瑞鳳、デカルト、清沢満之の論考を批判的に検討した結果、ここまでは言うことができる」といった率直な態度を取る出版物が少ないのは残念なことです。
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こちらの中村昇への言及は下記ご参照。
https://plaza.rakuten.co.jp/juksmile/diary/202403240005/
【「トンデモシュタイナー本の世界」中央大学文学部教授中村昇による解説本】
長崎出身、
鹿児島ラサール中高卒後
中央大学文学部へ進学。
ほとんど
何をした人なのかは
わかりにくく、
知られていない
中村昇。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%98%87_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
『ルドルフ·シュタイナー
思考の宇宙』河出書房新社
2022 pp.383
p.152のところで、
とりあえず中断。
全体としては
「哲学者としての
シュタイナー」は
どう振舞ったの?
という素描である。
他に、
「哲学ー落語」という
意外な著書もあるという。
宮藤官九郎
あたりが意外にも、
これをヒントにして、
「ドラゴン&タイガー」
の脚本ネタにした
というのは
1割くらいはありえる。
クドカンは
立川談志あたりは当然検討しているだろうけど。
中村昇の落語哲学論は反談志的立場である。
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