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【キラーコイルの秘密】
【ユダヤ的一神教への憧憬を抱く内田樹と中沢新一 『日本の文脈』2012】
ユダヤ的一神教の魅力は何かというと
世界解釈ができる、という一点のみ。
この世界解釈、
あるいは、
世界掌握というのは、
男のロマンらしい。
中沢は仏教ドグマで安心立命
しているところ、
親子して絶対ドグマと心中しないと
満足しない体質とみてよい。
親父はスターリン崇拝者。
息子はチベット密教崇拝者。
そういう信仰体質を
女性はもたない。
もっとも、
中沢の『女は存在しない』については
内容未見なので、なんとも言えないけど
それにしても、挑発的なタイトルである。
いまどき、こんなタイトルをつけると
どこかの「女は子供を産む機械だ」発言と
同列扱いされるんじゃないのかな?
2015頃に
『日本の文脈』をチラ見しているはず
なんだが、どうにも、内田×中沢の対談に
ついて記憶が甦らない。
あるいは、未読かもしれない。
中沢については
オウムに影響を与えたとされる
3部作くらいの検討で済ませている。
さすがに『蜜の流れる博士』あたりで
石が語る、と言い出されると、
カルト的主観主義解釈が過剰であり、
待てよ、となり、その後、中沢を
スルーしたままにしている。
とくに、『はじまりのレーニン』にて
「レーニンの笑い」から切り込むなど
タイトルみただけで、お里がばれてしまうと
こちらはみなしたのだが、みるまでもないとして
やはり、無視したまま。
そもそも、
西部遭あたりが
東大退官のきっかけになったのが
中沢新一問題であった。
西部はあのとき、中沢推しであった。
その後の西部をみていると、
案の定、自死の道をたどっている。
西部のようなブレまくり男は、
左右に振れたあと、もはや、することなし
になったとみてよい。
マルクス神学を捨てた西部には
その代替になるものが
見つからなかったのであろう。
オルテガ程度の大衆神学では
森羅万象を説明するには
足りないものが多すぎである。
補足。
中沢新一の初期著作群は下記のとおり。
『チベットのモーツァルト』せりか書房、1983年/講談社学術文庫、2003年
『雪片曲線論』青土社、1985年/中公文庫、1988年
『野ウサギの走り』思潮社、1986年/中公文庫、1989年
『イコノソフィア――聖画十講』河出書房新社、1987年/河出文庫、1989年
『虹の理論』新潮社、1987年/新潮文庫、1990年/講談社文芸文庫、2010年
『悪党的思考』平凡社、1988年/平凡社ライブラリー、1994年
『蜜の流れる博士』せりか書房、1989年
文体的にだめだなというのは、
『野ウサギの走り』あたりから顕著になる。
これはもう文学なのか小説なのか
境界が不明になるような過剰な想いが
ほとばしるようになる。
こちら的には、
反アカデミズム的表現が
露骨にでてくる
『蜜の流れる博士』にて
中沢検討は打ち止めにした。
世界解釈したがる癖については以下ご参照。
wikiより。
常に領域横断的な研究活動を続け、特定の学会におけるポジションや権威とは無縁ということもあって、アカデミズムの世界で中沢の研究について論じられる機会は極端に少なかった。[要出典]松村一男はこれについて、「なぜ中沢の神話論・宗教論が宗教学の枠内で論じられることがないのかといえば、それは皆、それを論じることで自分の研究の範囲の狭さが明らかになることを恐れているからかと思われる。そうした試みを行った場合には、弁明が伴う」[30]と述べ、「これはゲーテ、フンボルト、フロイト、ユング、そして日本での柳田國男、折口信夫、吉本隆明などと同じく、名前を冠した「中沢学」という、世界を丸ごと理解しようとする試み」(29頁)として、『カイエ・ソバージュ』の総合性を評価している。 吉本隆明は、「日本の知識人の中でも一種の珍品」として一休とも比較しながら「人類の精神の考古学」という言葉を用いて高く評価している
つまり、世界解釈したがる癖の根拠は
ずばり、ファナティックな信仰体質があるため、
といってよい。
それが過剰にでるため、
どうも、文体が鼻についてしまう。
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