葉、記、紀、延喜式祝詞の比較検討
山口昌男の『天皇制の文化人類学』の
巻頭対談において、
折口信夫の『古代研究』三巻をみたとき、
異様な感じにうたれた、とある。
この異様な感に打たれたとあるあとに、
一人では一時に何もかもできませんでした、とある。
さらに、全集が出たのはもっと後だし、・・・・と。
ということは、研究のネタ本にするには、
資料的に不足と、山口はみたということであろう。
逆にいうと、
折口の業績の一部にでも、
依拠してしまうと、
山口のオリジナリティが薄れてしまう。
まだ、読まれていないもの、
まだ、知られていないもの、
そういうものの紹介を兼ねての依拠に
山口は向かったという他ないだろう。
たしかに、
二番煎じ、三番煎じをするということは、
後塵を拝すことになり、
トップランナーにはなれない。
しかし、文系の場合は、
何が新しいのかというと、
解釈の斬新性だけである。
すでに、誰かが、どこかでしているのである。
しかし、どこが違うのかというと、
解釈の仕方、配列の仕方が異なるのである。
その異なる根拠は、時代的なもの、その人本人の合理癖など
であろう。その程度のものである。
さて、
万葉集検討の目的は、情緒性、想念性、情念性が
ゆさぶれるのかということ、
古事記検討の目的は、コイル文化装置のヒントがみつかるか
ということ、
日本書記検討の目的は、古事記検討と目的と同じ、
延喜式祝詞の検討目的は、そこに賞賛の発想構造を
見つけること、
などである。
で、上記検討を円滑にしていくため、
折口信夫の業績は最大限に活用されていく。
ということは、
山口昌男をきっかけにして、
一挙に、何かが拡大してきた。
まさか、これまで食わず嫌いであった
折口信夫を検討していくことになるとは、
まるで、予想外であった。
神道概論、神道宗教篇など、
あと、二冊の検討が予定されている。
一応、折口をくぐると、
相曾誠治の神道理解がどのあたりのものなのか、
かなりの輪郭が了解されてくるから不思議である。
相曾の場合は、宮地系の神仙系神道である。
実践派なので、神道神学を振り回すタイプではない。
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