【神代、古代、中近世、近代、現代の思想】
今を生きている人にとって、
現代にも及ぼしている思想の影響性を
自覚することは、
あまりチャンスがないでしょう。
というのは、目先のことに追われるので。
明日の試験、
明日のお金、
それが、たちまちの緊要事になります。
だから、ある程度の欲望が満足されると、
確固たる根拠、理由を知りたい、求めたいという
より高度な欲求に突き動かされていくことがあります。
というのは、単なる暗記では、凌ぐことができないので。
まぁ、最近では、
前世からの因縁とか、
そういう不可視の世界を持ち出して、
煙に巻く人も出てきます。
発生とか起源を考えると、
事の起こりの連鎖の時間軸を拡大すると、
過去、現在、未来の循環性を斟酌することになります。
しかし、通常は、
見えない世界については、
あくまでも、仮説、仮定の話になり、
不条理要素、不合理要素を排除する傾向になります。
つまり、辻褄の合わないことは、
なるべく考えない、取り入れない、と。
そのように、現代人は、
合理癖がついていますから、
いささかでも、不条理、不合理を認めたくないという
心性を身につけていきます。
だから、それが崩壊するときは、
不幸、不運、に遭遇するときです、ね。
どうも、これまでの考え方は違うんではないか、と。
どうも世の中には禍福があるんではないか。
不条理、不合理のほうが多いんではないかと
気付くようになります。
不条理性の解釈の典型問題は、
旧約のヨブ記のところ、
ユニークな解釈をしたのは、
カール・ユングでした。
つまり、出来の悪い悪神がいるんじゃないか、と。
あれは、出来損ないの神様じゃないか、と。
神には、善神と悪神の両方いるんじゃないか、と。
スゥーデンボルクあたりは、
人間の魂、霊魂の中に、
善霊二つ、悪霊二ついて、
それが、相克葛藤することにより、
人間は進化をしていくと、
仮説しています。
で、仕舞いには、グーノーシス主義のように、
この世は悪の世界であり、あの世を善の世界であると
二分し、この世を悪魔の支配する世界とみなす
極端な考え方をすることも可能になります。
あるいは、地上に天国を作るとして、
頑張る人もいますが、善人ばかりの現世というのものは、
いかに人間の魂が向上したとしても、
ユートピアであり、夢を見ているだけになります。
おそらく、幸福を求め、災難を除去する、
これが人間の欲望の基本かもしれないところ、
そうでない人は存在しているようですから、
何を求めるかは、属人的なことがらになります。
しかし、最初から破滅的な人はいませんから、
衣食住が満たされたあと、何を求めるかは、
それは、もう、百家鳴争状態になります。
しかし、衣食住が満たされない人は、
あくまでも、
物質的な満足をひたすら求めることでしょう、ね。
さて、ヘーゲルからニーチェへ、
というのは、近代思想の枠組みのところ、
実は、この枠組みの中にとどまると、
やはり、中途半端のようで、
近代から、中近世、古代、神代へ
限りなく遡及を迫られることがあります。
しかし、考え方を固めるのに、
過去への遡及訓練を欠いた場合、
やはり、弱点を抱えるようです。
特定のものにしがみつくのはよいとして、
相手から揺さぶれたとき、すぐにでも、
ぐらっと崩壊することがあります。
また、好きと嫌いでえり好みしていると、
欠陥だらけの思考回路が出来上がり、
相手からつつかれると、ぺしゃんこに
凹むこともあるようです。
いやしくも、
思想にかかわろうと思うのであれば、
現代思想のみでは弱いです、ね。
一番の捷径は、
古代、神代の思想で鍛えることです。
それ以上に遡及できないレベルで鍛えること。
そして、現代に戻るということは、
時間を限りなく分割していったり、
空間を限りなく分割していくことが、
テーマの一つであることが了解されることでしょう。
まぁ、現代とは、細分化の時代である、ともいえます。
で、細分化が過剰になると、
その反動が、どこかで来る、と。
そのように、両極に振れながら、
大きく、時代が動いていくのでしょう。・・・・
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