【法華経と聖書と資本論と】

【法華経と聖書と資本論と】


源氏物語理会に、法華経理会が伴うように、
宮澤賢治理解に、法華経理会が伴うようです。
しかし、
法華経理会のレベルにとどまると、
短篇、中篇どまりの作家になる可能性がきわめて強い、と。
源氏物語が長篇ということは、
法華経の影響を深くは受けていないとも
解されます。
宮澤賢治。
たとえば、銀河鉄道の夜にしても、
これは体外離脱経験をもとにして書いているのではないか、
とか、いろんな憶測が飛び交いますが、
こちらの非文学感性からすると、
いかなる鉱物が登場してくるのか、
そういう観方をすることがあります。
基本的に、短命で終わった人の作品には
深入りしないというのが、こちらの先入観です、ね。
太宰の小説などは、一級品なのでしょうが、
駆け込み訴へ、とか、
せいぜい、読むのは、キリスト、ユダにまつわる小説です。
芥川にしても、比較の意味で、
西方の人、
あたりまでで、それ以外にも、
今昔物語をくぐると、
また、芥川に対して、違った観方をすることでしょう。
で、宗教的観点から、
宮澤賢治を見るということはないです、ね。
そんなまどろしっこいことをするのであれば、
ずばり、法華経に向かいますので。
つまり、こちらは法華経の行者としても
宮澤賢治をみていないし、また、法華経信者の典型としても
みていないというだけなので、
宮澤賢治との接点は、鉱物的な関心というだけになります。
まぁ、宮澤賢治に魅かれて、
深入りすると、
当然、法華経とぶつかることになるでしょう、ね。
つまり、仏教思想入門ということです。
で、これに飽き足りない人は、
聖書に向かうことになります。
まるで、事件のような読み方をしたと回顧するのは、
吉本隆明ですが、
精神的事件になったのは、
宮澤賢治(ファーブル)、聖書、資本論だと
いいますが、
資本論のほうは、ちと、これは嘘くさい。
また、ファーブルも嘘くさい。宮澤賢治です、それは。
というのは、マルクスで残るのは、実は、
経済学・哲学草稿か、
ヘーゲル国法論批判か、
この初期の葛藤作だと、吉本は後年回顧します。
資本論は、感動するというよりか、
私的所有に対する憎悪感情を喚起されることが
多くなります。
嫉妬と憎悪のうち、憎悪感情ですね、喚起されるのは。
さて、日本人でなじみが薄いのは、聖書です。
まぁ、ほとんど、この日本では倫理書のように
読まれますが、それは、旧約をカットするから、
そうなってしまうのです、ね。
ユダヤ教の旧約から入ると、それは、もう、
何でもあり、という世界に拡大されます。
倫理的に純化していこうとするのが、新約で、
こちらから入ると、狭くなります。
殺人でさえ倫理的に合理化してしまう要素が出てきますから。
無信仰者をかんたんに殺してしまうという信仰パラドックスを
日本人が理解できるのか、どうなのか。
いまごろ、死刑執行所を公開する意図は不明ですが、
死刑廃止論者として、そういうことをするのだろうと
推理が可能です。せいぜい、惨酷なので、廃止しましょう、
という程度の死刑廃止論者だと解されます。
吉本あたりも、死刑廃止論者ですが、理由は何でしょうか。
国家から死刑執行権を奪取することの
政治効果は、プラスにはならないでしょう、ね。
警察、軍隊がどうしてあるかというと、
内乱防止が目的の一つですから、
これは、治安と抑圧との両価性を帯びています。
死刑執行という惨酷さが、犯罪抑止にもなりえる、
という死刑執行擁護論を突き破るのはおそらく
むつかしいでしょう、ね。
いまでも、四人までなら、死刑にならない、とか
計算する人たちはいますから。
未成年犯罪でも、死刑執行にしたのは、永山事件の
事案でした。別途に基準を作り出していきます。
その場合、情状、というものが重視されています。
反省しないやつは、厳罰に処す、と。
これは、抑止効果を狙っているからです、ね。
反省しないやつというのは、再犯の可能性が強いので。
それにしても、
精神的事件のように本を読むとか、
蒼ざめる衝撃を受けるとか、
目から鱗が取れるとか、
いろいろ、あるようで、・・・・・。
こちらは、事実は小説より奇なり、ですね。
論より証拠、です。

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