【歴史的素養性】
偽書が歴史を動かすという立場に立つと、
これは、プロパガンダ主義となり、
自由の近道派の採用する方法になります。
まぁ、こちらも、
私立型の人間なので、
体制の本流からは離れています。
官よりは在野です、ね。
で、在野の人間というのは、
かんたんには、
何かと一体化するという感情が薄いのが
特徴のようです。
月謝が安いからという理由で、
こちらは、国立に飛びつかない。
月謝が安いのが魅力なのであれば、
さらに、手当てをもらえる防衛大に
そういう人は行けばいいのです、よ。
あるいは、税務大学校とか、
気象大学校とか、即職業と直結する
養成機関がいくらでもあります。
往昔の貧乏人は、師範学校をめざした。
手当てがもらえたようです。
さて、私立型経由であっても、
やりたいことをやっていると、
どこにお宝が眠っているのか、
その鑑識眼が身についてきます。
とかく、新しいことに人は飛びつきますが、
目先の流行をおいかけるのは、わかいときに
限ります。そして、時代に左右されないもの、
時代を超えていくもの、そういうものはないのかと、
ある日を境にして、目先だけにとらわれていたのが、
視野拡張していきます。
超越性の意識が、ナショナリズムに融合していった、
などという指摘は、唐突ながら、普通の人は、
まず、そういうことを考えもしない。
だから、指標を失った風見鶏のごとく、
風の吹く方向に、目を向けるだけになります。
時代に合わせる、流行にあわせるというのは、
そういう風見鶏的存在になるということです、ね。
それでいいという人は、それで満足なのですから、
本人満足ということで、OKというのが、
いまの時代の特徴です。
それは、風の流れにあわせた人生で、
流れに乗っかるのが楽だと思う人は、
ひたすら、風の向きを予測することに専念します。
しかし、風見鶏の土台は動かないワケで、
土台に興味のある人は、目が上ではなく、下に向かう。
歴史的感覚、歴史的素養性というのは、
そういう土台に対する関心に起源があるようです。
少々、どこから風が吹こうとも、
変わらないものは何か、
そういうものへの興味と関心が、
歴史的素養性を作ります。
もち、変化の歴史性もつかむことが可能です。
まぁ、
こちらが日本古代史に関心があるのが、
大化の改新です、ね。
それ以前の遥か悠久の歴史に対しては、
漠然としたイメージがあるのみです。
明治維新のほうには、
さほどの関心が出てこないようです。
坂本龍馬といっても、
こちらは、土佐の本山町の犬神の実態調査のほうに
関心があったりして、・・・・。
出雲、土佐、豊後、この地域はどうして、
憑物筋の多発地帯であるのか、
です、ね。
で、大化の改新ということから、
中臣がどうして、権力の中枢に接近できたのか、
その秘密を探っていくと、神界パワーの掌握と、
とある政治的権謀術数の兵法書の暗誦という二点にいきつく。
往昔は、兵法書の探索、そして、最近は、中臣祝詞の探索、
そういう重点移動があります。
まぁ、権力変動が政治歴史の中枢であるという
見かたをしています。
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