【柳田国男の愛読書=『金枝篇』】
人の話をまとめただけの文化人類学の見本、
これが、フレイザーの『金枝篇』でした。
ご本人は、フィールド調査一切なしでした。
他人の話をまとめるだけ。
たしか、『遠野物語』も、
他人の話をまとめただけのものです。
柳田国男は、陶酔するように読んだ本は、
『金枝篇』だけだ、と。
簡約版の邦訳だけでも、五冊ありますから、
まず、自分の関心のあるところだけを読むことに
なりそうです。
全体として、何が書いてあるのか、
そんなものには興味なしです、ね。
聞き取り、聞き書きだけでも、
大著ができるワケですが、
民間伝承の類には、高級なものはほとんどないと
解すのが無難です。
実用レベルの話がほとんどです。
この世から占いがなくならないように、
呪術もなくならない。
呪術が効力がなくなったから、宗教が出てきたとは
こちらは解さないです、ね。
呪術と宗教と科学は、三者共存していきます。
太古、古代のものは、形を変えて温存されていくのです。
捨てられたかのごとく見えるものでも、
潜在記憶残滓としていつでも蘇ってきます。
合理癖のある人、
理屈を追いかける人、
そういう方は、
フレイザーの『金枝篇』は、
ちと、ご縁は出てこないです。
まぁ、開祖というのは、
否定される役目を持っているところ、
それにしても、
聞き取りだけでネタ集めしたのは
たいしたものです、ね。
所詮、フィールド調査といっても、
直接聞き取りのところ、
ネタをどう解釈してまとめるか、
そこに、評価主体が入りますから、
ネタ整理でバイアスが入ります。
直接であろうと、間接であろうと、
使えるネタがあれば、こちらは、よろしいのです。
しかし、フレイザーの『金枝篇』のネタはありすぎるので、
ほとんど、記憶に残っていないです、ね。
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