【折口信夫と平田篤胤】
折口信夫と西郷信綱の関連を調査していると、
下記の折口と平田篤胤との関連性について
論及記事に遭遇した。
折口については、
彼は、タカミムスビとカミムスビの造化神を重視する
という。
しかし、アメノミナカヌシの位置づけがわからない、と。
こちらからすると、
二神対偶式ということで、
諾冊二尊の対生成という発想と類似するとみている。
その対生成の前の「一つなるもの」を設定することには
さして意義を認めない。
まず、人間が遭遇するのは、対生成という現象なので。
その現象の背後にある本質というものは、
あくまでも、人間の観念による措定である。
いわゆる本質公理というものは、証明不要で、
ただ、措定するだけとなる。
それで、
折口が、アメノミナカヌシの働きがよくわからない
としたことは、まことに正直であるといってよい。
無理にドグマを構築する姿勢はそこにないので。
ただ、対なるものにより、結びの作用が現象する、と。
それは、中国の易経の陰と陽による対生成に近い。
さて、以下の記事は、
平田篤胤と折口信夫の類似性が指摘される。
しかし、
平田篤胤については、『霊の真柱』という
霊的形而上学について、
さほど、こちらは検討していないので、
彼がキリスト教の影響を受けていたと指摘には
判断を保留する。
どうも、論者は、ポストモダンという観点から
ニュー神道の再生をめざしているようであり、
ちと、こちらのパワー論からする神道検討とは
神道言及の論点が異なるので、
あまり、かみあわない。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10002258104.html
折口神道神学と不連続的差異論:超越神と内在神の統一
テーマ:折口信夫論
安藤礼二氏の『神々の闘争 折口信夫論』の「第五章 内在と超越の一神教」は、実に刺激的である。折口の神道論の先駆者として、平田篤胤をあげている。平田篤胤はキリスト教の影響を受けて、古事記の造化の三神を、「主宰神」としての天御中主神、天地創造する神として産霊神を考えていたということである。折口は、この造化の三神を一つの産霊神にしたということである。ここで図化すると、
篤胤の神道
1.主宰神:天御中主神/2.造化神:産霊神/3.万象
折口の神道
1.産霊神/2.神々(造化神)/3.造化
となるだろう。
最後に、安藤氏は、折口の神道教は、イスラム教とスピノザ哲学とを矛盾統一するようなものだと述べている。引用しよう。
『折口は「産霊」によって、一方においてこのような「最終・至高」の一神教イスラームの絶対帰依を要求する超越的な創造神「アッラーフ」と重なり合う概念を提出し、またもう一方において伝統的な「神道」の立場から、そしてシャーマニズムの根源に見出されたマナの概念に基づいて、この同じ「産霊」を、万物に内在し万物を生成させる「神即自然」でもある、きわめてスピノザ的な内在的創造神としてもとらえている。これは非常に緊張感に満ちたダイナミックを引き起こす。なぜなら、この世界から隔絶したイスラームの「超越神」は、世界に偏在しその根本原因となるスピノザ的「内在神」とは鋭く対立する部分があるからである。』p.231
安藤氏は、イスラム教とスピノザ哲学の対蹠的両面をもつものとして、折口神学を説明している。しかし、不連続的差異論の見地からは、内在性=超越性が理論化されているので、実に、両者の対立は、統一化されるのである。超越神=内在神である。だから、折口神道神学は、アジアの宗教を統一していると言えるのである。アフロ・ユーラシアの宗教の統一とも言えると思う。思うに、D.H.ロレンスが考えた聖霊的宇宙宗教と通じるものがある。それは、ポスト・キリスト教である。そして、この全地球宗教と言うべき宗教の神学の構成を、不連続的差異論は整合的に提示する。不連続的差異論が、新しい地球宗教を裏付ける。
p.s. アフロ・ユーラシアメリカだろう。アメリカ大陸の先住民の宗教もアジアと共通するだろう。
p.p.s. アボリジニとも共通するだろうから、アフロユーラシアメリコセアニアとなる。
こうした読み方は、
むしろ、西郷信綱の古事記の読み方を
取り上げたほうが適切ではないかと解す。
というのは、折口信夫の場合は、
情調、情念、情のほうにウェイトが置かれており、
さほど、神道再興などには興味はなかったからである。
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