【折口信夫とまじない】
いかに、祈祷力、祝詞力に「力」をもたせるか、
という観点から、調べると、
中世芸能発生というテーマのサイトで、
『日本語に探る古代信仰』の紹介記事に遭遇した。
言語発信の情調性の根拠をどこに置くか。
そういう問題でもあります、ね。
http://moriheiku.exblog.jp/12644235/
土橋寛を参考に。
ほうほう、蛍来い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ。ほうほう、蛍来い。
わらべ歌。あちこちの川に蛍が見られていた頃の歌。
蛍がこちらへ来てほしいという素朴な願いがことばになる。
こうしたものが、哲学的ないわゆる宗教より前に分類される
呪術のはじまりと考えられる。
※ここで言う呪術とは、人間が、
自然や他者を直接的にコントロールし願いを達成しようとした行為のこと。
実際には蛍はこちらへ来ないかもしれない。それでも
“蛍を呼び寄せたいという願望は、言語表現によって実在化され、それによって願望は補償されるのであって、これがいわゆるカタルシスであり、呪術的意識に裏付けられた呪術以前の、いわば先呪術原語である。”
呪術的意識を伴わない先呪術的行動の反復を通して、
呪術的意識を伴う呪術は成立したと考えられる。
呪術的に意識されたわらべ歌もあるそうで。
旧正月十五日に行われる「成木責め」は、
“「今年はなるか、ならぬか」と言って鉈(なた)で柿の幹に傷をつけると、他の一人が「なります、なります」と答え、木に粥を食わせる。そうすると、その年は柿の実がよくなるとされているのである。”
また魚の骨が咽喉にひっかかった時に、
「天の川にすむ鵜の鳥の 食うもひょろひょろ 呑むもひょろひょろ」
なんていう唱え事があるとのこと。
これは鵜が大きな魚も楽々呑みこむ姿を歌って、
「類感」させて咽喉の骨を取ろうと呪(まじな)いのことば。
・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応
うんと古いの神語(とされるもの)が、言い切りの、命令形式であったことや、
折口信夫においては、
諺(ことわざ)は「こと」と「わざ」、原因と結果であって、
神の命令であると考えられたことは、
願いを口に出す時の、素朴な行為を思えば、そうであったと思われる。
たとえば蛍を呼んだり、明日天気になれ、と強く願う時、
我々のことばは命令になる。
霊(タマ、魂、精霊、神)の概念ができ、
ものに霊(タマ、魂、精霊、神)があると信じられるようになれば、
その命令は、霊(タマ、魂、精霊、神)に対しての命令になる。
それがことばによる命令ならば、
ものの霊(タマ、魂、精霊、神)に影響を与えることばの威力が、
言霊(ことだま)ということばの霊力(タマ、魂、精霊、神)である。
物事がその通りになってほしいという願いと結果を、
ものの霊(タマ、魂、精霊、神)にかまけさせ(類感させ)て、
その通りの結果が得られるように、
よごとは唱えられ予祝がされてきた。
こうした呪術は、呪術として発達した。
がそれでも呪術が効かない。
現実的な例えば生老病死の苦しみは、まじないだけでは逃れられない。
その訪れる苦しみから逃れる術(すべ)を、宗教は示す。
欲を捨て去ることが最終的に苦しみから解放されることである、とか、
赦すことで苦しみから逃れられる、
また神を教え守り善を積む者は死後天国へ迎えられる、など、
呪術だけでは救われない心を、宗教は救済する。
こうしたことから、
呪術の失敗から宗教が起こったとするフレイザーの説に
納得される部分がある。
ほたるのわらべ歌のように。
誰に教えられるのでもない、われわれの素直な、
自然な身体の動きに立ちかえる時、
いつも物事は、ひとつにつながっているもの、として
姿をあらわす。
そこに見る結論は、
そこに至るずっと前から感じていたこととかわらない。
なのになぜこうしたことを追ってるの。
私は、結論までの間の、密度を高めることをしているのだろうか。
結論までの空白を、具体的な姿、言葉で、埋めようとしているのだろうか。
ただ、ああそうか、と心が動かされてならないからしてる。
自然の中にいる時のように、内部に新鮮な水がしみわたるように、
魂が振るえるように感動する。
まったく仕事でない、遊び。
昔の「たまふり」の、
魂を振るわせて活発に活動させることを「遊び」と言うのなら、
これは私が私の魂にしている遊び。
参考:土橋寛著『日本語に探る古代信仰』
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