【吉本の価値転倒の仕方はニーチェ的】
彼の種明かしの一つとして、
すべての価値あるものをひっくり返すと
いいんじゃないかという仮説がある。
ええっ、という感じのところ、
これはやけくそなのか、
思想的にすれているのか、
すごいやつほど、だめやつとしてひっくりかえせば
いいんじゃないか、とか、
でも、それは、根拠のあるだめなやつであって、
根拠のないだめなやつというのは、
ひっくり返そうにも、返しようがない、と。
ここまでくると、
これは、もう、
ニーチェ的な怨恨に毒されているんじゃないかと
さえ思われてくる。
思想的な実験として、
思想としての観念の無限性の襞の中に
わけいって、いろんなことを妄想するのは、
ご本人の勝手なのだが、
やはり、彼の生き様の基本は、
戦前の皇国少年と戦後の民主主義少年との
180度の価値転倒性に対する恨みがあるとしか
解されないところがでてくる。
ものごとの両極を強いられた、
という感じが残るのであろう。
まぁ、ひまな社会人であれば、
いまどき糸井が吉本をひっぱりだすことに
関心をもつかもしれないところ、
もはや、急激な社会の変化により、
価値の交替があるので、
こういう思想家のタワゴトめいたものに
一々、付き合うこともなかろうという意見さえでてくる。
人間の観念性の中にわけいって、
個人観念性、
対観念性、
共同観念性、
と、いくら観念の次元の相異の混同がなくなれば、
ストレス、葛藤もなくなるといっても、
所詮、彼の論は、認識論なので、
認識のめがねを変えると、世の中、変わってみえる、
という認識主観主義の主張に帰結するまでのことである。
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