【古事記の謎への入り方】
訓詁註釈的な感覚の持ち主は、
おらそく、本居宣長の古事記伝から
入るのでしょうけど、
また、神道入門を宣長からしたという人も
おられるけど、
これは、筋としては、よろしくない、というのが
こちらの立場です。
こういう連中はマニュアルを求めたがる人たちで、
ドグマに自分をはめこむだけの非独創的な連中です、ね。
文芸評論家の小林秀雄は、
最後に、宣長にたどり着いたようですが、
引用に次ぐ引用で、
宣長と格闘するには、ちと、素養不足につき、
打ち倒れになっています。
さて、古事記の謎への入り方ですが、
実は、最初からこうだと、決めないことです。
いろんな入り方があるワケで、
その入り方が、各自のセンスを決めるので。
自信のない人は、自信のない入り方をし、
的を外している人は、的を外した入り方をし、
要は、各自の問題意識と仮説により、
入門していくだけになります。
あとは、何を確認したのか、それだけです、よ。
格別に古事記に限らず、
何かを検討するということは、
何を検討するのか、ということです。
古事記を検討することで、
そこから何かを得ようとしたり、
そういう人は、おそらく、期待を裏切られることでしょう。
すでに、何かの下心を抱いて、
古事記に接近するワケですから、
知識ゼロの状態からの入門ではない。
入り方としては、
日本書記から迂回していくのが、
正解の一つだろうとは仮説しています。
表門が日本書記、
裏門が古事記、
と、比較しつつ、何をあぶりだしていくのか、
ということです、ね。
だから、そこには、何かを習うという感覚はない。
各自なりに立てた仮説検証の素材として、
使うこと、それが、非学者的な入り方になります。
つまり、訓詁註釈的な感覚からは入らない。
厳密に読む訓練は、他に最適な素材がいくらでもあるので。
コメント